梁の上から


続きはwebで・・・

「続きはwebで」なんて文言がだいぶ前に流行っていたが、インターネットが補助的なものでなく主流の一つになってしまったせいかめっきり見かけなくなってしまった。代わりに今では猫も杓子も「何とかかんとかで検索!」やらSNSアカウントを宣伝と来たものだ。
個人か団体かを問わず全ての存在がSNSのアカウントやホームページを持っているような気さえしてくる一方、そういったものが無いと少し不便だなと感じる時もあり、小生自身もまたインターネットに飲み込まれてしまっている事に改めて気が付き、インターネットとはかくも恐ろしい物かと考える次第である。

さて、「続きはwebで」系の広告といえば広告を中途半端に終わらせて興味を掻き立てホームページに誘導するという狙いがあるが、今になってみるとアレはどれ程効果があったのだろうかと思う。
あの類の広告の全盛期ではまだインターネットは一手間かかるようなものだった気もするし、そのような状況下では少しばかり興味を持たせたところで「じゃあ見に行ってみようかな」とはならなかったのではないか。よく見かけたのも資本主義特有の「みんなやってるから」だったのではないかという気もしている。
実際小生もその手の広告を見て見に行ったことはなかった(無論これには小生の生来の天邪鬼から来る「乗せられてたまるか」という反発心もあっただろう)が、本当に効果があったのかどうかは専門家ではないので定かではない。

一方現代の広告は広告内で完結し、一方でSNSやホームページでこんなこともやっているよと宣伝する方向に変わってきている。スマートホンやパソコンの性能向上もありインターネットが身近になっている現代では、「とりあえず見に行ってみるか」がやりやすくなった事がこの流れを支えているのではないだろうか。
またインターネットの広告もそれ自体として楽しまれるようになってきており、かつてのような「皆がやっているから」というような状況からは脱しつつあるように見て取れる。

ただ、どちらにせよそれは本当に効果があるのだろうか?と考える事も多い。「続きはwebで」時代の広告に対してそう考えた理由は既に上げたが、現代でも一つのコンテンツとして楽しめるものにしないとしっかりと見てもらえない、或いはそう思い込む度が過ぎる余り、却ってよくわからない状態に陥っているものも少なくないのではないか。
また非インターネット広告の方もイメージを優先する余り、何を伝えたいのか、何の広告なのか、そういった事が分り辛くなってきているように思う。

結論を述べれば、凝った広告も結構だが、凝りすぎて大事なものを見失っていないか、その凝り方や努力は無駄になっていないか、という事である。

「続きはwebで」の文言から長い事書いてきたが、以上の事はお察しの通りすべて無根拠な思い込みによって書かれたものである。
詰まる所、小生「都築はwebで」駄文を垂れ流してきた、という事になる。おそまつさまでした。

2014/12/26
雑記一覧へ
topに戻る
inserted by FC2 system