梁の上から


倦怠を待ちながら

やはり何をするにも「不便」だとか「制約」だとか言うものは必要なんだと思う。より良いアイデアはそういった恵まれているとは言い難い状況から出てくる事も多いし、或いはそういった状況を解決するためのアイデアが、その状況に対する限定的な意義だけでなく広く一般的な意義を持っていたという例も少なくない。
ゲームにおいてもそうだ。何のルールも定めないのではゲームにならないし、何よりサッカーのような遊びで「俺だけは手を使っていい」だの、野球のような遊びで「俺だけはバットを振ったら一点」だのやり始めたら、例えゲームとしての体裁を保てたとしても白けてしまい一切盛り上がらないのは想像に難くない。

また、ある物事への熱意もそれが出来ない状況においての方がより大きくなり易い。「勉強」なんかがいい例で、学校制度が確立されており政情不安等も無い恵まれた日本よりも、発展途上国の子供の方が学校や勉強への熱意が大きいらしい。「やるな」と強く言われるとどうしてもやりたくなってしまうとか、「押すなよ押すなよ絶対押すなよ」とか言われるともはや押す事に義務感すら感じてしまうのもこういった「制約が熱意を生む」一例だと思う。

小生が今行っている文章を書くという行為にも「制約」は必要だと言える。ただ漫然と文章を書くよりも、「第三者として読んでみてどうか」といった事や、「どこかしら何かしらの意味で面白いと思えるところはあるか」といった「制約」を意識した方が良い文章が出てき易い(※個人差はあります)。出てき易いというだけで出てくる訳ではない。
それに文章を書くと言う行為そのものも、それが出来ない状況においてのほうが意欲が出てくる。小生は今書こうと思えばいつでも文章を書き編集できる生活を送っているが、以前色々と忙しくそういったことをやる時間が中々取れなかった頃の方があれを書いてやろう、これを書いてやろうと思っていた。今ではいつでも出来るせいか「後でやればいいか」となかなか取り組めていない。

以上の事は本来ならばビデオゲームやインターネットにも同様の事が言えるはずである。本来ならば。小生は今はいつでもビデオゲームやインターネットをできる環境にあるし、実際やっている。となれば今頃は飽きに飽きて見るのも嫌になっているはずである。なのに一切飽きていない所か未だに一日何時間と費やしてしまう。
何故だ。

2014/3/31
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