梁の上から


つまらない話

「つまらない話」に対する自戒を大いに込めた考察

無駄に生きて来ている筆者ではあるが、流石にその中でも何回か話を書いた事話した事、何回も聞いた事読んだことがあるので、その経験の中から、「つまらない話」について考察を行いたい。なおこの場合の「話」とは、日常会話や一寸した小噺やそういった類のものではなく、講演講義等のようにテーマを持ってある程度話者が一方的に話す、といった「話」である。

話を「つまらない」と感じさせる要素には、大別して二つの要素がある。「話の構成」の問題と「話し手、書き手の問題」、この二つだ。

「話の内容は?」と思われる御方も居られようが、当サイトの記事「面白い話」でもお伝えしているが、あまり大きな問題ではない、と筆者は考えている。筆者には到底無理だが、実際に日常の何気ない出来事、例えば「トイレに行った」程度の話でも面白おかしく出来る方がこの世に存在している事が、それを支持しているであろう。

では各要素について見ていく。先ず「話の構成」、これはつまり話のテンポの事である。地上波放送で映画や番組を見ていて、「何回CM挟むんだよ?」とか、「それCM前にやったけどまた繰り返すの?」と興を削がれた経験はないだろうか?これと同じだ。
話が余りにも進まない、何度も同じ部分を繰り返す、これらは話の流れを、テンポを確実に断ち切り、「もうそこは聞いたよ、早く先に進んで」と聴衆を飽きさせてしまうことは間違いない。もっとも、後者に関しては繰り返しが適切な回数であればくどさを笑いに変えることも或いは出来るであろう。
個人的な話として筆者の通っていた中学高校には月一位で校長先生のありがたーいお話を拝聴する授業があり、いつ聞いても代わり映えのしない内容に、「またこの話かよ・・・」とげんなりすることが多々あって、その上長めの感想文を書いて提出しなければならず、感想文だとかそういった類の文章を書くのが苦手な筆者はかなり辟易としていた。
そもそも感想文等と言うものがまかり通っている現状はおかしい、断固としてこれを打ち破らねば・・・と言う話はまぁ置いておこう。

次は「話し手、書き手の問題」だ。「話し手書き手の自分の話に対する向き合い方」と言い換える事も出来よう。「つまらない話だけど」とかそういった予防線が余り好きでないと言う個人的見解が大いに含まれていることをご理解ご了承いただきたい。これに限った話ではないが。
何よりの問題は、話し手書き手が「どうせつまらないし・・・」と思ったり、恥ずかしがったりして、ある種の萎縮をしてしまう事だ。話と言うものの目的とは、内容話し方もさることながら、話し手書き手の情熱とテンションを以て、視聴者読者と何か感じたもの、伝えたい感覚、そういったものを共有せんとする事ではなかろうか。ある種の萎縮をしてしまえば、自分の話に対する真剣さ真摯さを失い、この目的を失する事になりはしないか。
また、そういった個人的な「話」観を抜きにしても、ある種の萎縮をしている状態では、良い話が出てきづらいという経験は誰にでもあるはずで、「勢いに任せて書いたはいいが、冷静になって読んでみた所恥ずかしくなって半分以上消してしまった」事のある方も少なからず居られよう。勿論、筆者のように何でもかんでも勢いに任せて書き殴り、あまつさえサイトを開設し公開してしまうというのも・・・いやこれ以上は言うまい。

以上「つまらない話」に対する考察を行った。「何を偉そうに」と思われた方には、この文章は昔ブログをやっていたこともあるが全く閲覧数その他が伸びなかった自分に対する反省から生まれたのであるという釈明をしておきたい。

いやほんと面白い話書くのって難しいよね。「やべぇwwwwwwwwこれおもしれぇwwwwwwww」とか書きながら思ってても反応が芳しくなかったり途中で賢者タイムが来たりとか。
「起承転結」とか「自分の経験を混ぜて話すとか」ポイントはわかってるんだけど実践が・・・。
以上つまらない話でした。

2013/11/14
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